ルチルはいつもよりだいぶ早起きをして、簡単に朝食を済ませてからミチルをフィガロとレノックスに任せて、故郷へと箒を急がせた。
フルールの仕事の予定はいつもルチルとミチルに伝えられている。今日は吟遊詩人の仕事はないはずだ。その後、仕事が入ったとは聞いていない。だからおそらく自宅にいるだろう。もしも外にいたとしても、空から見ればきっとすぐに見つけられる。──なんていったって、風に揺れて日に透ける彼女の髪の毛はいつだってルチルの目を引くから。
ルチルが自宅の近辺まで向かうと、フルールは家のすぐそばで洗濯物を干していた。腕まくりをして、大きなシーツをピンと伸ばしている。見慣れた光景だけれども、そうだからこそ帰ってきたんだという実感が湧いてきてなんだか安心した。
箒で飛んできた勢いのまま、ルチルは地面を踏み締めて駆けた。乾いた土埃が舞う。息が上がっている。耳の奥で鼓動が大きく響く。それすらも愛おしかった。普段は迎える側なのに、今日は逆だな、なんて口の端が上がった。
「フルール!」
近づいて、両手を広げて、ルチルは大好きな人のもとへ飛び込んだ。フルールの身体を持ち上げてくるくると回る。
「わあ! ルチル、おかえりなさい!」
フルールはルチルに身を任せ、そのまま二人でけらけらと笑いながら踊るようにひとしきり戯れた。
動きをゆるやかにしていって、ルチルはフルールをぎゅっと抱きしめて停止した。フルールは宥めるように背中をさする。顔を上げ、少し笑いをこぼしてルチルの髪の毛を撫でつけた。
「どうしたの、だいぶお急ぎだったのかしら。髪の毛がボサボサ! ミチルは?」
「ミチルは魔法舎にいるよ。さっそくお友達ができたみたいなんだ。私だけちょっと帰ってきたの。フルールに会いたかった。たくさん話したいことがあるんだ」
ルチルはフルールの首元に顔を埋めて、そのまま額をぐりぐりと押し付ける。
心の中が溢れそうだった。
少し故郷を離れただけなのに、本当にたくさん話したいことがあった。
南の国では見ることのない人間と魔法使いの確執。
南の魔法使いたちはやはり石になってしまったこと。
個性豊かな賢者の魔法使いたち。
魔法舎で暮らすかもしれないこと。
フルールも連れてきていいと言われたこと。
何から話せばいいのか、気持ちがまとまらなかった。
そんなルチルの耳元に、フルールがやさしく囁いた。
「ルチル、何が飲みたい? 私はあったかい紅茶の気分」
ルチルは、ほうと息を吐いた。
言葉にできない思いを汲み取って、そしてやわらかく包んでくれるのはいつだってフルールだ。
「私も! この間もらったお花の香りのする、甘酸っぱいやつが飲みたい!」
「あら、素敵! ふふ、お疲れの旦那様においしい紅茶を淹れてさしあげましょう」
フルールがおどけてルチルの手を握った。身体を離して家の中へと誘う。ルチルは手を引かれるままに歩みを進めた。はじめはゆっくりと足を動かしたけれども、次第に踊るように軽やかな足取りになっていく。
家の中に入ってテーブルにつくと、フルールが魔法を使ってあちこちからクッションをルチルの元に持ってきた。「そのまま待っていてね」と言い残してキッチンに向かう後ろ姿を見ながら、幸せだなあなんて思って、クッションに顎を乗せて、目を閉じた。
少し離れたところからはお湯が沸いていく音がする。ガサゴソと茶葉を探すフルールの姿が容易にまぶたの裏に浮かんだ。ポットとカップに一度お湯を入れてあたためてから紅茶を淹れて、そうしてトレーで人数分のティーセットを持ってくる。いつも通りの日常だ。華やかな香りが鼻をくすぐる。ゆったりとした足音がそばに寄ってきて、ルチルは目を開けた。
フルールは穏やかにテーブルの上を準備していたが、ルチルの視線に気付いて微笑んだ。ルチルの隣に座って、肩を寄せる。
ふたりで香りを楽しみ、あたたかい紅茶を飲むと、自然に身体から力が抜けた。それからもう一口飲んでから、ルチルは魔法舎であった出来事を話していった。
フルールは、前の賢者の魔法使いが石になってしまったと聞いた時の話ではやはり涙ぐんだが、ずっと穏やかに相槌を打ち、ルチルの言葉を促していった。
そうして話の最後に魔法舎で一緒に過ごすことを提案すると、フルールは満面に喜色をたたえて、しかし一度身を引いた。
「私も一緒にいてもいいの? ご迷惑でない?」
「大丈夫。いない人もいたんだけど、ほとんどの人が良いよって言ってくれたんだ。それに、賢者様が女性の方だから、同じ女の人がいた方が心強いって。どうか力になってさしあげてね」
「嬉しい! 私、ルチルとミチルを手助けすることもできるし、賢者様のお役にも立てるのね」
「うん。でも、がんばりすぎないでね。周りにも頼ること!」
「ふふ、うん、分かっています。ルチルもね」
「分かっています!」
またふたりで笑いながら身体をお互いの方に傾けて、頭を寄せた。
息がゆっくりとできている感じがする。やはりルチルはフルールの隣にいるのが一番しっくりきて、それはフルールも同じなのだ。今までだってお互いの仕事の都合で会えない時もたまにあったけれども、いつもと違う目まぐるしく移り変わるこの状況の中では、そばにいられないことはひどく心細く感じた。ルチルが帰ってきて、フルールが寄り添って、それでようやく欠けたピースが戻ってきたように思う。
今後について少し確認をしあってから、フルールは立ち上がった。
「ご近所の方々にも話してこなくちゃね」
「それなら私が行くよ。フルールは出かける準備をして」
「あら、なら一緒に行きましょう! 魔法舎で暮らすかどうかというのはまだ決まっていないし、それならあなた達だって色々な物を持っていかなければならないのだから、またお時間をいただけるんでしょう? 私の準備はすぐに終わらせられるから」
「本当に? 大丈夫?」
「あなたは自分の妻の職業をご存知ではないのかしら」
胸を張ってそう言うフルールにルチルはちょっとぽかんと口を開けて、それから声をあげて笑い、フルールの両手を握った。
「そうだね、私の大事な奥さんは世界を飛びまわる吟遊詩人だものね」
フルールもうふふと笑った。
