ルチルとフルールが結婚してすぐに、ふたりは時間を作ってティコ湖にやって来た。ミチルは友達のおうちで遊ぶ予定で、ルチルとフルールのふたりは仕事もたっぷり一日お休みだ。
ミチルがまだ生まれていなかった幼い頃にフローレスの両親たちに連れられてきたことはあったが、大人になってからふたりきりで来たことはなかった。魔法使いが箒という移動手段を持っていても、ティコ湖は南の国の外れにあるので、雲の街に住んでいる者にとっては気軽に来られる場所ではなかった。
しかし、ふたりは示し合わせたようにティコ湖にまた一緒に行きたいとずっと思っていた。だって、記憶の中に残る嬉しそうなフローレス夫婦の馴れ初めは、いつだってふたりの胸を熱くした。
だから、ルチルとフルールが結婚をして、今までだって特別だったけれどもっともっと特別な存在になった今、ティコ湖でデートをするのだ。
動きやすい服装で、でもいつもよりもお洒落をする。ときめくものを身につけて、少し特別感を出す。それだけでウキウキと心が躍った。
久しぶりに見たティコ湖は綺麗で、神秘的で、でも記憶の中と変わらない静けさを持っていて、嬉しいような、寂しいような不思議な気分で自然と溜息が漏れた。
箒からおりて、フルールが軽く髪の毛を整えると、ルチルが満面の笑みでフルールの方に手を差し出した。
「行こう、フルール!」
フルールも顔を綻ばせてその手を取った。
「ええ、ルチル!」
ルチルとフルールはティコ湖の周りを歩いたり、色々な花を探したりしてゆったりとした時間をすごした。
やがて座るのにちょうどいいような場所を見つけ、荷物の中から敷物を出してふたりで肩を寄せた。
ルチルは手帳を取り出してフルールに広げて見せた。ルチルの整った文字で書かれていたのは、見覚えのある詩だった。
「フルール、覚えてる? 『星の湖』!」
「ええ、もちろん! 諳んじることもお手の物よ」
「ああ待って待って! まず私に読ませて!」
大きく息を吸うフルールを止めて、ルチルは軽く咳払いをする。フルールは力を抜いてルチルに寄り掛かった。
ルチルの穏やかで柔らかい声が詩をなぞる。
胸がぽかぽかとしてきて、なんだかくすぐったさも感じて、フルールは身を捩った。
それに気付いたルチルがフルールの目を覗き込んでいっそう口角をあげる。ゆっくりと唇を動かして、言葉を続ける。
「僕の瞳は星の湖」
フルールは吐息だけで笑った。この詩は何回も読んだし、何回も聞いてきた。でも、こういうふうにルチルに、自分のためだけに囁かれる詩はとても特別で、とっても幸せなものだった。
ルチルはフルールの目元に唇を落とす。この場所にはふたりきりしかいないのに、内緒の話をするように密やかに囁いた。
「永遠の愛で、きみを見つめている」
花が揺れる音が聞こえる。風に香りがのってふたりの元に届いた。
そのままふたりは静けさに身を任せた。
目を見合わせて笑みをこぼし、鼻を擦り寄せる。フルールがはにかんだような笑みを浮かべると、ルチルはうっとりとフルールの頬を撫でた。
「フルール、かわいい」
「ふふ、素敵よ、ルチル」
ルチルとフルールが体を離してから、フルールは自分の竪琴を出して、ルチルと向かい合うように座り直した。
「『星の湖』に曲をつけてみたの。まだ誰にも聴いてもらってないから、ルチルが一番に聴いてくれる?」
それに対するルチルの答えは決まっていた。フルールもそれは理解していた。でも、言葉にして承諾をとり、改めて気持ちを確認するその一連のコミュニケーションが好きだった。
「ええ、もちろん!」
大きく頷いてからフルールは弦を少し鳴らして調子を見た。それから一呼吸おいて、音を紡ぎ始める。フルールの声がそれを追って響いた。
その韻律は静かで、やわらかなものだったが、詩の情熱的な愛を感じさせる甘やかさと凛とした力強さを兼ね備えていた。詩の言葉の響きや世界観を尊重しながらも、それはフルールの心を写したもののようだった。
きっと違う人が曲を作ったならまた違うものとなっただろう。でも、だからこそ自由と幸福がそこにあった。
最後の一音を鳴らしてフルールは満足げな息を吐く。頬を紅潮させながら目を細めてルチルの方を向いた。竪琴を魔法でしまって、ルチルの胸元に飛び込む。ルチルもフルールの体を抱きしめてうふふと笑った。
「とっても素敵だった!」
「やった!」
湖が太陽を反射してきらきらと輝く。どこまでも飛んで行けそうなくらい澄んだ青が天地に広がっていた。
またひとつ、ふたりの間で新しく大切な思い出が作られた。
