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第1話 両親と子ども時代のお話

 フルールは覚えている。

 ずっとずっと前に寝物語に聞いていた両親の話も覚えている。

 両親はどちらも魔法使いで、そして吟遊詩人だった。正しくは、最初はフルールの父は吟遊詩人ではなく西の貴族の生まれで、気の遠くなるような長い時間を貴族の一員として暮らしていたそうだ。しかし、ある時にパーティーに来た吟遊詩人──フルールの母の伸び伸びとした楽しい歌声に恋をし、家を出て行った。
 その出会いのことを、父はよくフルールに遠くを見るようにしながらも優しげな顔で語っていた。

 元々の出身のこともあり、音楽に造詣が深かった父は母に吟遊詩人としての生き方を教えてもらい、それでようやく吟遊詩人になったのだ。二人は一緒に旅をして楽しさや思い出を分かち合い、次第にお互い愛し合い、そして夫婦となった。

 吟遊詩人の夫婦として、二人は魔法使いたちの中である程度有名となった。もちろん吟遊詩人は他にもいたものの、夫婦どちらもが吟遊詩人であるのは珍しかった。さらに、必要な場合には魔法使いであることをうまく隠して人間の営みにも自然に交ざっていたことは、人嫌いの魔法使いたちをたいそう驚かせたそうだ。
 二人は賑やかな中央の祭りに参加したり、開拓中の南で鼓舞の宴を開いたり、はたまた西のお茶会で場を和ませたり、静かな東の森の中で鎮めの歌をうたったりと、たくさんのところで歓迎された。一方で、誰も寄せ付けない北の凍てつく大地にも積極的に飛び込んでいった。

 そうして世界を駆け回っていた二人は、ある時に南の国に居住地を定めた。
 その理由は、父の療養のためだった。
 重篤となった父の命を、母はなんとか魔法で繋ぎ止めた。しかし、ずっとその魔法をかけ続けていなければならず、父の状態も全快というわけにはいかなかったためにこれ以上の旅は無理だろうと断念した。
 安住の地を南の国に定めたのは、母の古くからの友人であるチレッタがそこに住んでいたというのが大きな要因だ。フルールの母は「チレッタがここに腰を落ち着けているのだから、定住するのなら絶対にここって決めていたの!」といきなりチレッタの家の隣に魔法で家を建てた。木が踊って、レンガが駆ける。
 突飛で陽気なその様子に周辺の住民たちは口をぽかんと開けて見守るしかなかったらしい。
 友人の性格をよく知るチレッタだけは、腹を抱えて笑っていた。

 穏やかに暮らしていた吟遊詩人の夫婦は、やがて子どもを授かった。それがフルールだ。二人は子どもが出来ないだろうとなんとなく思っていたので、とても驚いて、そしてたいそう喜んだ。

 しかし、程なくしてフルールの母は自らの寿命を知った。

 フルールの母が亡くなれば、同時に彼女の伴侶にかかっている魔法もとけて死んでしまう。寿命が詳しい時期までは分からなかったが、そう遠くない未来であることだけは理解していた。つまりは、幼い子どもを置いていってしまうということだ。

 それでも夫婦は絶望しなかった。
 幸いにも、同じ時期に子どもを宿したフローレス夫妻は二人の前向きな姿勢に共感し、いずれ訪れる未来には自分たちを頼ってほしいと進んで申し出てくれた。更には魔力が強く治癒魔法も得意なフィガロも近所に住んでいるし、南の国は人間も魔法使いに対しても穏やかで協力的なために、夫婦がいなくなってからでもきっと大丈夫だと、そう思える環境だった。
 だから、夫婦は迷いなくフルールを産んだ。

 フルールは、生まれてすぐのことも覚えている。

 ルチルの方が先に生まれて、フルールはその少し後に生まれた。産後の母親たちと子どもたちの状況が落ち着いてから、二人はすぐに出会った。
 母親たちは嬉しそうに子どもたちを並べて寝かせた。父親たちは安心させるように子どもたちの頭を撫でた。
 フルールは、そのとき全然目が見えなくて、何がどうなっているのかも分からなかったけれど、それでも、とても綺麗な新緑の瞳の色がすぐ近くにあったことは覚えている。
 それがルチルとフルールの長い付き合いの始まりだった。

 二つの家族は元々とても仲が良かったために、ルチルとフルールは自然に仲良くして、寄り添って成長してきた。一緒に遊んで、一緒におやつを食べて、一緒にお昼寝をして、歩けるようになったら一緒にお散歩をして。
 それでも、彼らはそれぞれの家族の時間も大切にしていて、家族三人だけの時間もたっぷり過ごした。たくさんの愛情をもらって、たくさんの思い出をもらって、たくさんのお喋りをした。

 そして、そんな家族の団欒の時に別れの時はやってきた。

 夫婦は別れをずっと覚悟していたけれども、それでもやはり涙はあふれていた。フルールの頬に口づけをして、髪の毛を梳き、そして抱きしめ続けた。少しでも自分たちの境界がなくなって気持ちが伝わればいいと祈りをこめて、ありったけの祝福と守護、そして吟遊詩人としてのあらゆることを魔法でフルールに授けた。
 魔力に影響されて、家具が音を鳴らして震えた。瞳から流れ落ちる滴がきらきらと光っていた。

 母親が小さく、甘やかな声で歌い出した。それに合わせて父親も声を重ねた。二人の響きはぴったりと寄り添い、世界を彩り、そしてフルールの心を揺らした。
 どうか、愛しい子どもの未来に幸せが訪れますように。元気で過ごせますように。おいしいものをいっぱい食べられますように。素敵なものをたくさん見つけられますように。大切なものを大切にできますように。世界の煌めきを抱きしめられますように。そんな、素朴で切なる想いが込められた歌だった。
 子どもの時の記憶は、成長するにつれて霞となってその形の輪郭をなぞることは難しくなるものである。しかし、たとえ過去をすっかり忘れてしまっても、心を揺さぶった歌はふとした瞬間に流れ出る。吟遊詩人の彼らは、そのことをよく知っていた。だから、どうか少しでもこの愛を遺していけるようにと願った。
「ごめんね、一人でおいていってしまって」
「愛しているの。それだけは忘れないで。私たちの宝物」

 フルールはきちんとわかっていた。だから応えた。舌足らずでも、覚えている言葉が少なくても、それでも心は震えていて、それを大好きな二人に分かってもらえるように表すのは、彼女にとって当たり前のことだった。
「だいすき、だいすきよ」
 短い手を精一杯伸ばした。フルールの小さな体では二人を支えることは到底できなかった。でも他にどうしたらいいのかはわからなかった。ぎゅっと二人の服を掴んだ。
 愛しい人たちの顔を忘れたくなくてずっと顔を上げていたけれども、視界が歪んで見えなくなって、ぐしゃぐしゃの顔を二人に押し付けた。最初は乾いた感触が顔に当たっていたが、フルールの目からこぼれるもので濡れて、冷たくなっていった。大きな手が頭を撫でた。優しい手が背中をさすった。髪の毛や耳元、うなじにも雨のようにぽつぽつと落ちてくるものがある気配がする。

 どうしたらいいのかは分からなかった。
 だから、心のままに伝えるしかなかった。

「おかあさま、おとうさま。ずっとすき、だいすきなの……」

 フルールは、覚えている。

 ──異変を感じたフローレス夫妻が隣の家を覗くと、しゃくり上げながら大粒の涙を流しているフルールが座り込んでいるだけで、そこにあるはずの両親の石は一欠片も残っていなかった。

 それから、フルールはフローレス家で育てられた。フローレス夫妻は先立ってしまった友人たちに負けないようにたくさんフルールに愛情を注いでくれた。
 フローレス家の父親には勉強を教えてもらい、母親には魔法を教えてもらい、そしてその家の子どもとはますます一緒に過ごした。フルールとルチルはいっそう仲が良くなって、どこに行くにも連れ立って駆け回っていた。

 ある夜だった。
 フルールは突然さびしくなって、かなしくなって、眠れなくなってしまった。そういう時に限って大人たちは違う部屋にいて、呼びに行くことは憚られた。

 そんな時に、一緒の部屋で寝ていたルチルがむにゃむにゃと目を擦りながら「ねられないの?」と声をかけてくれた。
 フルールは視界がぼやけそうになったのを必死に耐えた。胸がいっぱいになって、言葉を口に出したらそこからたくさんのものが溢れてしまいそうで、何も答えられなかった。それでもルチルは全く気を悪くせずに「だいじょうぶ」と舌足らずな声で言って、フルールの手を握った。とてもやわらかく、あたたかくて、安心できる手だった。
 すぐにルチルは夢の中に戻ってしまったけれども、それだけでなんだか息をするのが楽になった感じがした。救われたような、気がした。

 フルールは繋がれた手に視線を落として、その先を辿って、ルチルの顔を覗いた。ルチルはしまりなく穏やかに笑っていた。楽しい夢を見ているのか、口の端が震えている時がある。

 とってもすきだなあ、と思った。

 幼い子どもには恋や愛のなんたるかなんてよく分からなかったけれども、好きという感情があったことだけは確かだった。

 かなしい気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。
 繋いだ手から伝わってくる体温で体がぽかぽかしてきて、フルールは目を閉じた。

 ルチルが何でもないふうにこうして手を握ってくれることが嬉しかった。
 一緒にいられることは喜ばしかった。
 ルチルのことが大好きだ。

 フルールはずっとずっと昔からルチルのことが大好きで、ルチルといると特別に幸せなんだ。

 フルールは、覚えている。