たどり着いたランズベルグ領は、ヒースクリフとシノが話していた通り、確かにひまわり畑が一面に広がっていた。
常ならばきっと力強い花々は気分を浮き立たせるであろう。しかし、今それらはフルールの心に不安をもたらしてくる。
全部、ただのフルールの杞憂だったらいい。心配しすぎだったと笑い事にできたらそれが一番だ。
そもそも、異変はビアンカが原因ではないかもしれない。それに、ビアンカはフルールの両親のことを認識していなかったか、もしくは何の思いも抱えていなかったことだって考えられる。でも、もし住民たちの懸念通りにビアンカの無念や未練がよくないものとして残っていて、フルールから両親の魔法の気配が漏れてしまったことにより刺激を与えてしまったらということを想像するだけで身が竦む。
空は澄んでいて、鮮やかで、優しげな青に染まっている。涼しい風が頬を撫でる。この地域の土は見るからに水捌けが良さそうだけれども、馴染み深い南の国のものよりも乾燥していない。たくさんの命を育める豊かさを抱いている大地だ。
ひまわりはレノックスの背丈よりも高くて大きい。色鮮やかな花が太陽に向かって姿勢良く立ち並んでいるのは圧巻の光景だ。
フルールは意識してひまわりから離れた位置に立ち止まる。ルチルはその横に立ち、フルールの手を握った。
ミチルは顔を輝かせてひまわりを褒め称えている。フィガロもそれを肯定したが、ミチルの肩に手を置いて穏やかに警戒を促す。その様子にシノが目を眇めた。フィガロは柔和な笑みを保ったままシノに応えるが、シノは鼻を鳴らして離れていった。フィガロはその様子を見守った後にフルールの方を向き、「──そうは言っても、そんなに気を張らなくていいよ、フルール」と微笑んだ。
「緊張しすぎると魔法を思うように使えなくなってしまう。大丈夫、あの人たちの魔力の残滓はしっかり隠れているよ。細工をしている気配も感じさせない。きみのおいは随分うまいことできているね。誰に教えてもらったんだい? シャイロック? 双子先生かな?」
「よかった……ありがとうございます。これはお父様とお母様が教えて──いえ、遺してくれていたものです」
「へえ、あの人たちはそんなのも置いていっていたのか」
「ええ。……ふふ、多分フィガロ先生が思ってるよりいっぱいあると思いますよ」
「それはすごい。今度改めてじっくり見せてもらおうかな──と」
そこで言葉を切ってフィガロは視線を彷徨わせた。レノックスが一点を見つめている。フルールもレノックスの見ている先を目で追った。
「あそこ……。人が集まっているようですね」
「本当だ。揉めているみたいだね」
人々の声が聞こえる距離まで近付くと、どうやらこの村の人たちとランズベルグ領の役人が言い争いをしているようだった。怯えている住民たちと、それを抑えようとしている役人たちの語調はどんどん荒くなっている。事前に話を聞いていた通り、今にも暴動が起きそうな雰囲気だった。
「魔法使いなんか信用できるか!」
村人のそんな一言に、南の若い魔法使いたちは身体を固くした。南の国で魔法使いは重宝されるか、もしくは他の人間たちと同じ扱いをされることがほとんどで、忌避されることは滅多にない。先日、中央の国でも経験はしたが、協力して生き、役に立てることに喜びを感じ、愛し愛されて育ってきた若者たちにとっては刃のような言葉だった。自然と息が詰まって、顔が強張ってしまう。
「背筋を伸ばして、胸を張って。息を大きく吸って、吐いて。真っ直ぐ前を見るんだ」
聞こえてきた小さな声に、いつの間にか下がっていた目線を上げた。
フィガロがいつも通りの穏やかな声色と表情のまま、ミチルとルチル、フルールを順番に一瞥して頷く。そしてそのまま群衆たちの方を向いた。フィガロは村人たちの方に視線を向けたまま静かに言葉を続ける。
「わざと険しくする必要はないけど、弱気な顔は見せないで。今とても不安で、困っていて、怖いのは彼らだ。混乱を煽ってしまう」
ヒースクリフとシノが村人たちの前に立っている。シノの声が高い空に朗々と響いた。ヒースクリフは新しい仲間たちとなかなか打ち解けなかったのに、今は毅然とした態度で、しかし柔らかに村人たちに話しかけている。彼らの背中は真っ直ぐ伸びていて、とても頼もしく見えた。
村人たちが声高にビアンカへの恐怖と、幻ではなく本当に絞首刑の縄が空に揺れていたことを主張していると、まさにその言葉通りに空に縄が現れた。
その絞首刑の縄は生々しい質感を持って存在している。ささくれた縄は人間の力や重さだけでは到底切れ落ちそうにないほどに太い。それがちょうど人の頭が通る形に輪が結ばれている。どこからこの縄が垂れているのかは確認ができない。
フルールの脳裏に、人の首にあの縄がかけられる光景が浮かんだ。目の前の風景が遠くなって、光が点滅する。
記憶の中と変わらない母の歌声が頭の中に響く。
父の箒の軌道が流れ星のように駆けた。
──忘失、忘却、忘恩なぞ。忘れめや、忘れめや。
母の方が目を引く歌い方や演出が達者で、父は細やかなものを得意としている。だから、きっと母が民衆たちの関心を集めて、父が個々人の手助けをしていたはずだ。
歌の中に、たくさんのひとの名前が入っている。フルールは知らないけれど知っている。これは、助けられなかったひとたちの名前だ。ずっと心の奥の、氷の向こう側に見つめていた。
ふと、背中にあたたかさが灯って、視界が開けた。
鮮やかなひまわり畑の前で、ファウストとヒースクリフと、それにファウストが村人たちを説得している。
フルールが視線を巡らせると、ルチルとミチルが前方に注意を向けながらもフルールの背中を摩ってくれていたことに気が付いた。フルールが目をぱちつかせていたら、それを横目で見た兄弟はほっと顔を緩めて息を吐いた。
フィガロは、そっと三人に近寄っていって、ファウストの言葉を邪魔しないくらいに小さな声で「大丈夫だよ」と囁いた。
「俺たちには力と、知識と、それに人脈がある。安心して、ファウストはこういう分野には明るいし、東の魔法使いたちは実力派だ。レノも色々な経験をしてきたやつだし、何よりフィガロ先生だっているだろう? ──まあ、そうはならないと思うけど、だめだったらオズを引っ張り出してもいい」
冗談のようにそう言って、フィガロは微笑んだ。
「きみたちが出来ることはたくさんあるし、それはこれからもどんどん増えていく。でも、できないことは誰かに頼っていいんだ。適切な時に誰かに頼ること、それも力量のひとつだよ」
ファウストが村人の前に力強く立ち、彼らを説得している。ビアンカが安らかに眠れるように、祈りを捧げてほしいと訴えている。
フィガロが満足そうに頷く。
「──うん。南の魔法使いは呪いが苦手だけど、ファウストの言うように、ビアンカが安らかに眠れるように、そう思って、考えて、行動していこう。それはできるだろう?」
ルチルも、ミチルも、フルールも拳をぎゅっと握りしめて「はい!」と口を揃えた。
