ごはんを食べ終わって、ミチルがようやく小さく笑顔を見せるようになってから、フルールは後片付けをするために食器を持ってキッチンへ向かった。ルチルとミチルも一緒に片付けると主張したが、ふたりにゆっくりしていてほしいフルールは、自分だけで行くと固辞した。
両手にトレイを抱えて魔法舎の廊下を歩く。ゆっくりと夕飯を食べていたから夜はだいぶ深くなっている。
食堂を覗くと明かりは消えていて、きれいに片付けられていた。昨日とは打って変わって人の気配が魔法舎のそこかしこからするものの、食事の時間はどうやら終わっているようだ。
少なくとも食べられないまま放置されることはなかったことへの安堵と、自分が後片付けをするつもりだったのに遅くなりすぎてしまったという反省を胸に抱きながらキッチンへと向かう。
水音が聞こえてきたので、様子を窺うために顔だけ覗かせると、早朝の太陽が上り切っていない頃の空の色のような髪色を持った後ろ姿がそこにあった。軽やかな手つきで大量の食器を次々と洗っていく。確か彼は料理屋をやっていたということだから、食器洗いもきっと日常のひとつだったのだろう。
「ネロさん! お皿洗いまでしていただいてありがとうございます!」
「ん? ああ、別に……ええっと、ミチルは大丈夫そうか?」
「ええ、すっかり落ち着いて、ごはんもいっぱい食べてくれました」
「そりゃ良かった。それも洗うよ」
「私、やりますよ。残ってるやつも。ネロさんもお疲れでしょう?」
「あー、いいよ。朝飯の下準備もするし」
「じゃあお手伝いでも──」
そう言いかけたフルールは、ネロがぎこちない表情を浮かべているのに気付いた。彼は東の魔法使いで、しかも料理関係のプロだから一人で気ままにやる方が気を遣わない可能性があるとようやく思い至った。
「……ネロさんは、おひとりでやる方がやりやすいですか?」
「……悪い」
ネロは罰が悪そうに顔を逸らしたが、フルールは気にせずに静かに食器を置いた。警戒心の強い馬や羊を相手にするように明るいけれど落ち着いた声を意識して出す。
「じゃあ、お言葉に甘えてお願いしますね。明日の朝ごはん楽しみにしています」
あからさまにほっとした様子のネロは手元に視線を落としたまま笑いをこぼした。
「ああ、美味いの作ってやるよ」

ルチルと一緒にベッドに潜り込む。ばたばたしていて意識していなかったが、魔法舎で一緒に過ごす初めての夜だった。いつもと違う場所で一緒に寝たことはなかったので、ちょっと不思議な気分だ。
フルールは半身を起こしてルチルの髪の毛をかき上げた。ミチルからルチルが乱暴を受けたと聞いたので、頭に傷が出来ていないのかじっくり見てみる。
「大丈夫だよ、フルール」
「うん……うん……傷はない。綺麗よ、ルチル」
そのまま露わになった額に口付けて、フルールは寝転がった。
ルチルはフルールの身体を抱き寄せて、ゆっくりと頭を撫でた。
「大丈夫」
フルールは目蓋を閉じて、今日あったことを思い返す。
──魔法使いになりたい人間の男の子。
「魔法が使えたら、色んなことができて、仕事も困らない」。
南の国では魔法使いが歓迎されるし、子どもがそう生まれるようにと願う人だっている。他の国でも、魔法使いを忌避する一方で魔法に焦がれる者もいる。得体が知れなくて害を与える可能性のある魔法使いは恐ろしくとも、魔法という能力それ自体は誰もが喉から手が出るものかもしれない。おそらくその証となるのが、西の国を中心に発展している魔法科学だろう。
魔法はとても色んなことができて、とっても役に立つ。それはきっと、確かに事実だ。
もしも、フルールが人間に生まれていたらどうだっただろう。
もしも、雲の街みたいにみんなで協力することもできずに、仕事に困ってしまったら。
もしも、そのために生きていくこともむずかしくなってしまったら。
もしも、「夢のようになんでもできる魔法」に縋るしかなかったら。
たくさんの「もしも」を考えてみる。魔法使いだって過去のことは変えられないから、それは考えたって詮無いことだ。
でもフルールは考えた。悲観というわけではなく、恐れというわけでもなく、ただ考えた。
そうなったら、今のように生きていけるのだろうか。フルールにはその自信はなかった。だって、様々な自分を取り巻く環境が心に強く影響を与えることを知っている。安心して眠れなければ楽しいものを見つけられない。お腹が空いて動けなくなれば、歌はうたえない。
頭の上からまたルチルの声が聞こえてくる。
「大丈夫」
その穏やかな声を聞くと、胸がぽかぽかして本当に大丈夫な気がしてくる。
色んな状況が違っていたら、たくさんのものが変わっていて、きっとそれはフルールでなくなってしまう気がする。そうであったらきっとそのように生きるしかないし、もしかしたらそう決心することすらできずに死んでしまっているかもしれない。
「もしも」の話に思いを馳せたって仕方がない。でも、「もしも」のことを考えるからこそ現在の様々なものに感謝をして、精一杯自分のやりたいことをやろうと改めて思える。
──やりたいこと。見つけてきた素敵なものを少しでもたくさんの人と共有できたらいい。人それぞれそれは違うだろうから、反対に教えてもらって、素敵なものの輪が広がったらいい。たとえそれが理解できないものでも、決して否定はせずにいたいと、ぼんやりした頭でそう思った。
「大丈夫」
ルチルがフルールの輪郭を撫でる。
「ええ、ええ、ルチル」
「うん、大丈夫」
「大丈夫」
フルールはルチルの胸元に顔を押し付けた。
あたたかさが伝染していく。
お互いに身体の力が抜けていくのが分かった。
呼吸の音が穏やかになっていく。
どちらとも判別のつかない「大丈夫」という言葉が、夢の間に溶けた。
